
南海ホークスのページ |
管理人は、南海ファンである。あぶさんの連載開始からまもなく南海ファンになった。当時は東京にいたため、南海の情報などまったく手に入らない。テレビ放映なんて、NHKで年に1回あるかないか、プロ野球ニュースでも、「では、その他の試合の結果です」だけ。一般新聞でも、勝敗の結果しか出ない。スポーツ紙は多少詳しいが、そんなものを毎試合買うお金はなく、時々友達が学校に持ってくるスポニチを4面だけ読ませてもらっていた。(パリーグの記事は、1面でも2面でも3面でもなく、4面の隅っこにちょっとあるだけ)
それにしたって文字だけで、写真が出ることなどめったにない。関東でのパリーグの扱いなどそんな程度だったのだ。実際に球場に行くしか、選手の姿を見ることはできなかったが、お金もない高校生は、そんなことはできなかった。
大学に入って、アルバイトをするようになると、お金の余裕が多少出てきた。そして、後楽園の日ハム戦、川崎のロッテ戦、所沢の西武戦に、足しげく通うようになった。
<後楽園>後楽園の場合、当然外野席なのだが、当時500円の入場料だった。しかし、正規の券など買わない。ダフ屋から買う。ダフ屋というと、正規料金より高いのが普通だが、日ハムの場合、安いのである。彼らはタダ券を仕入れて300円くらいで売る。それを買うのである。

<川崎>まず川崎駅前のロッテリアに入ってハンバーガーを食べる。そして、おまけとしてくれる、「川崎球場外野席券」を手に入れて球場へ向かうのである。よく行くようになると、南海応援団のおじさんらとも親しくなった。彼らは「応援団用の枠として、内野にただで入れるようになっていた。そのため、私も彼らといっしょに入場して、球場職員とも顔なじみになってくると、そのうち顔パスで入れるようになった。

<西武>西武の場合、タダ券も顔パスも無理。ダフ屋もいない。正規の券を買うしかなかった。遠方のため、交通費も入れると結構な負担になる。そこで苦肉の策として、西武ライオンズファンクラブに入会した。安い年会費で招待券がもらえ、割引サービスもあったからだ。そのため、熱烈南海ファンなのに、西武グッズをたくさん持っていた。もちろん、すべてのグッズに「南海ホークスGo! くたばれライオンズ!」とマジックで書いていたが。
南海のファンクラブには、当初入らなかった。というのも当時の各球団のファンクラブというのは、「フランチャイズ球場のみのタダ券、および割引サービスしかなく、ビジターで役に立つ特典がまったくなかったからだ。1982年の時、パリーグ各球団が、「ビジターゲームでも、割引できる」ようにファンクラブの機能を改善した。(もっと早くから考えて欲しかった) それ以降は、やっと南海のファンクラブに入った。 大人用だけでなく、特典グッズが欲しくて「少年ホークスの会」にも入ったこともある。

(打席は定岡)
◆極小 南海ファン
1983年?以前の南海ファンというのは、「関東では15人しかいない」と島田伸介に笑われたくらい、実際少なかった。時々来る応援団の皆さんも5〜6人程度。鐘と太鼓のみ。当時、セなら当たり前のようにあった、トランペットなんて無理無理。ある意味、大リーグみたいな素朴な応援だった。応援の仕方もヤジばっかり。でも、けっこう面白かった。特に川崎球場はファールグランドが狭いため、選手や相手側スタンドへの距離が近い。こちらの声は確実に選手に聞こえる。(なにせ客が少ないから、全体的に静かなこと) だから、反応がダイレクト。こっちに返事をする選手もいる。なにしろ、球場に足を運ぶファンというのは、メチャクチャファンだから、選手のことについても詳しいのだ。ただし、川崎の場合、あまりにも客が少ないため、デートで球場を使うカップルなんかがいて、野球など見ずにイチャイチャしている。競輪競馬の帰りに時間つぶしできている暇人もいる。ロッテリアでタダ券もらったから、ひやかしで来た、というのもいて、客はさまざまだ。公式発表では、年間シートの席数を入場者数として発表するため、絶対に600人を下回ることはないのだが、実際の客はほんとに少なかった。私の記憶では、全部で64人という試合があった。私がこの目で数えたのだから間違いない。平均しても400人はいなかったと思う。当時の南海ーロッテといえば、最も人気の無いカードだったからしょうがない。
ロッテ応援団とのやりとりも面白かった。当時のロッテ応援団というのは、本当のファンではなくて、ロッテ本社によって組織されたものだったから、遠めに見ても「いやそうに、義理で応援している」のがわかった。「おーい! そっちも大変だなあ。残業かい?」「手当てはちょっとなんですよ、ほんとは嫌なんですよ」なんて会話を、グランドの選手を挟んで客同士がしていた。今では信じられない光景だ。

写真:83/6川崎球場 こんなに狭いライトスタンドなんて他にない。子供がよじ登っても注意されないおおらかさ。背中は金城21と矢野24。

さびしい限りのロッテ応援団。休日出勤も大変だ。手前は香川。
◆組織化
たしか、1984年だったと思うが、「関東荒鷹会」という私設応援団が若者を中心に組織された。これは奇跡的なことである。尊敬してしまう。関東で南海ファンと名乗ることは偉大である。勇気がいる。しかし、考えてみると、南海という球団は実に応援のしがいがある球団だった。「何せメチャクチャ弱いから、これ以上落ちることはないだろう」という安心感もあった。勝率が3割台で当時の掛布の打率より低かった。とにかくファンの人数が少ないから、”自分たちの球団”という意識が12球団一強かった気がする。弱いといえど、新井のシュアなバッティグ、河埜の毎回毎回の全力疾走、門田の見事な放物線、どんな遠くからでもすぐわかる香川の巨体、サブマリン金城のストレートなど、見るべきものもあった。当然、私も会に入れてもらった。この会にはトランペットもあった。けっこう組織的な見事な応援をしていた。
ただ、私としては、贅沢な注文ながら、昔のスタイルのほうが良かった。当時の応援団のメンバーは、スタンドの客を”指揮する”ことに意義を感じていたかのごとく思われたからだ。グランドに背を向けて応援するのはおかしいと思えた。どんな打席でも同じように「ホームランホームラン門田」とか、決まりセリフで応援するのも、他球団のマネみたいでいやだった。通なら、その場面場面に応じた、ディープな知識に基づく応援・ヤジをすべきだと思う。彼らの応援も尊敬に値するが、自分には肌が合わなかった。というわけで次第に「幽霊会員」となっていった。(ただし、会自体はメンバーの努力により発展し、現在は隆盛を極めている)
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| プレーを見ずに応援するのはどうも馴染めなかった。 | 徐々にパリーグの試合も観客が入るようになってきた |
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帽子をはじめとして、この他にもいろいろなグッズを所有していたが、いかんせんすべて安物の粗悪品ばかりで、ちょっと使うとすぐにボロボロになり、ほとんど捨ててしまった。 | |
| 少年ホークスの会 レッスンバッグ |
これも懐かしい、ファンクラブの会員証 |
◆その後
学生時代は、活発に応援活動ができたが、社会人になるとなかなか球場にもいけなくなった。ただし、だんだんとパリーグが報道される機会が増えてきた。テレビも時々は関東でも放映され、プロ野球ニュースも全試合、映像を流すようになったから、球場に行かずとも情報は得ることができ、遠くから応援することができた。
しかし、1988オフ南海は消滅した。ものすごいショックだった。身内が死んだようだった。「もう応援はやめよう」と思った。ただ、あぶさんもダイエーの選手となったことで、細々といまだにファンは続けている。
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